OHUTON

アニメとかいろんなことの話とかします。

ヴィクトルとユーリ、新旧レジェンドを繋ぐもの、君の名は勝生勇利(前編)の草稿

前記事の元ネタになった長文ツイートです。(2017/1/4,1/6)

 

 ユーリはヴィクトルの曲の解釈に対する見解、「そんなのフィーリングじゃないか」というセリフに絶句していたけれど、彼はフィーリングだけではダメなことにあの歳でもう気が付いているんだなヴィクトルを無理にでもロシアに持ち帰ろうとしなかったのも、彼から学んだらダメになると思ったからかな?

 もちろんそれは、彼と同等の才能を持つ先輩がいて、その才能がどういう風に進化していき、どう後退していくのかを、同じコーチの下、リンクメイトとしてつぶさに見守れるという、ヴィクトルには望めなかった、とてつもなく幸せな環境があったからだけれども。だからこそユーリは、ヴィクトルではなく、勇利のスケートに惹かれたんだろうなヴィクトルが惹かれたのと、きっと同じ理由で。自分が上へと進化し続ける為には、勇利のスケートが必要という点では、2人は何も変わりがない。ヴィクトルが泣きついたのも自然な流れか。だからこそ、ユーリは12話で命懸けのFSに挑み、泣いたんだろうな

 最終回から振り返ってみると、やはりというかなんというか、全ての解釈が逆転して、ダブルユーリがヴィクトルを巡って戦う物語(反転)ヴィクトルとユーリが勇利を巡って対立する物語、となりましたねミステリーアニメかな???そして、ヴィクトルとユーリは若い頃の自分と未来の自分でもある。

 ヴィクトルとユーリは全12話中、ずっと激しい対立関係(新旧レジェンド対決)を続けてきたけれど、勇利の引退を阻止するという点においてのみ共闘し、勇利を迎えにいくという時も2人揃って仲良くお出迎え。勇利がいなかった前シーズンまでは、ヤコフ一門は表面下では相当にピリピリしていたのでは?

 ヴィクトルとユーリ以外で画面に出てくるヤコフの弟子が、ミラとギオルギーという強烈にマイペースな人材のみになるのも当たり前か。勇利を巡る戦いは、昨年のGPF前までは始まっていなかったので、まだまだ前哨戦だったろうけれど、他の弟子にとっては、かなりストレスのかかる環境だったのでは。

 

ヴィクトルとユーリ、新旧レジェンドを繋ぐもの、君の名は勝生勇利(前編)

 

タイトルは勝生勇利メインの記事っぽいんですが、ユーリの記事です。

 

 前回の記事で書いた通り、ヴィクトルは自分のフィーリングを言語化出来ない男です。今まではそれでもやってこられた、でもとうとうイマジネーションも尽きてあら大変、という時にやって来てくれたのが皆さんご存知、我らのアイドル、勝生勇利くんです。勝生くんはヴィクトルに出来なかったこと、フィーリングを言語化出来るレベルまで解釈し、それに合わせて振り付けを変更、曲のリズムと振り付けを調和させるということをやってのけ、ヴィクトルの死んだイマジネーションを見事に蘇らせてくれました。割れ鍋に綴じ蓋カップルよ永遠に。

 話をユーリに戻します。ユーリは1話の時点でヴィクトルの記録を実は破っているん(ジュニア世界選手権2連覇)ですが、彼がヴィクトル以上の逸材であることは、徐々に、密やかに視聴者に全話に渡って示されていきます。
 まずはフィーリングに対する見解の相違からですね。ユーリはヴィクトルの曲の解釈に対する見解、「そんなのフィーリングじゃないか」というセリフに絶句しています。彼はフィーリングだけやっていけばいずれは行きづまり、残るのは氷上の美しい抜け殻のみ、ということに十五歳で気がついているんですね。彼はヴィクトル以上の才能の持ち主なので、ユーリもまた同じくフィーリングのみでやっていけなくはなかったんだろうけれど、彼はそれを極端に嫌がった。ヴィクトルがユーリの闘志を煽るライバルにはなれても、師にはなれないことがわかるシーンです(振付師もできるな…)。
 彼はヴィクトルに何度も「説明しろ(=言語化しろ!)」と言いますが、それが出来たらわざわざ日本まで勝生勇利のコーチをしにやって来ませんよ、というところでしょうか。ユーリが温泉oniceから帰る時、無理にでもヴィクトルをロシアに持ち帰ろうとしなかったのも、ヴィクトルから学んだら自分のスケート、というよりも自分を構築する人格ごとダメになると思ったからかもしれませんね(そこまで行く前に喧嘩別れするか…)。冷静にヤコフのもとで続けることが自分のスケート人生にとってベストである、と判断できた彼はやはりYOIの登場人物たちの中で、一二を争うほどに賢いのではないでしょうか。
 もちろん、ユーリがあそこまで早い段階でフィーリングのみでやっていくことの危険性に気が付くことが出来たのは、ユーリの才能がヴィクトル以上であるからでしょうが、それ以上に、彼はヴィクトルが若い頃に(おそらくは)得られなかったもの、自分と同等の才能を持つ者と出会えていたからでしょう。ユーリは彼と同等の才能が、どういう風に進化していき、どう後退していくのかを、同じコーチのもと、リンクメイトとしてつぶさに観察することが出来るという、ヴィクトルには望めなかったであろう、とてつもなく幸せな環境が、ユーリにはあったのです(そういう幸運も含めて彼の才能といえますね)。
 だからこそユーリは、ヴィクトルではなく、勇利のスケートに惹かれたんでしょうね。完璧とは程遠いのに、人を惹きつけるスケート。それはヴィクトルというある意味での”完璧”とされたものを超えることを至上の目標にしていたユーリにとって、それまでスケートに抱いていた価値観のすべてがひっくり返るほどの衝撃だったのではないでしょうか(そして思わずトイレまで付けていくという奇行に出てしまうあたり、彼は自分のフィーリングのみに突き動かされて生きているヴィクトルに、やはり似ていますね)。ヴィクトルが勇利のスケートに惹かれたのも、きっと同じ理由でしょう。自分が求めて得られなかったスケートが、そこでは実現されていた。自分が上へと進化し続ける為には、勇利のスケートが必要という点では、二人は何も変わりがない。勇利の引退宣言に対し、ヴィクトルがユーリに泣きついたのも、二人が抱いていた共通の思いを思えば、自然な流れです。だからこそ、ユーリは命懸けのFSに挑み、滑り終えたあと、泣いたのでしょう…。
 最終回から振り返ってみると、やはりというかなんというか、全ての解釈が逆転して、ダブルユーリがヴィクトルを巡って戦う物語→(反転)→ヴィクトルとユーリが勇利を巡って対立する物語、となりましたね…。ミステリ小説を読んでいる気分です(それも、ミステリ小説であることそのものを隠していた、ミステリ小説)。
 そして、ユーリとヴィクトル、GPFでとうとう明かされたこの二人の関係で重要な事実は、もう一つあります。無心の境地でagapeを滑るユーリに対してヤコフが見た、若い頃のヴィクトル。これは、ヴィクトルとユーリはある視点から見れば同一人物である、つまり、過去の自分と未来の自分である、ということを示しています。
 ヴィクトルとユーリは全十二話中、ずっと激しい対立関係(=新旧レジェンド対決)を続けていましたが、その理由は意図的に、ずっとぼかされてきました。そしてユーリの勇利に対する真の思いが明らかになったいま、ようやく彼らがどうして対立関係であったのか、深く納得できるのです。そして二人が、勇利の引退を阻止するという点においてのみ共闘した理由も。
 彼らは同じ天の果実(=勇利)を巡って争う関係でもあり、過去の自分と未来の自分の激しい闘争でもあったのです。初期の温泉oniceではユーリと勇利がヴィクトルという果実を巡って争う対立構造でしたが、最終回に至ってこの対立構造も逆転し、ユーリとヴィクトル、どちらが勇利に選ばれるか、という立場に入れ替わります。そのことは、ラストの場面、ユーリとヴィクトルの二人が勇利を迎えに来る、というシーンに象徴的に示されます。第一話で初めてこの三人が集うシーンにおいては、勇利は二人から離れていきました。ラストにおいて、三人の関係性はすべてが逆転したといえるかもしれません。
 ユーリとヴィクトル、この二人の関係がネクストステージに進むためには勇利がそこにいなければならず、勇利がそこに加わったことによって、三拍子の音楽が奏でられ始めたのです。勇利がいなかった前シーズンまでは、ユーリとヴィクトルの関係は、表向きは才能豊かな後輩を指導する先達、そしてそれに反発しながらも憧れる後進、という関係であったでしょうが、水面下ではどうだったでしょうか。実際、物語の中で、ユーリは「誰もがお前に憧れている思うなよ」と、はっきりとヴィクトルを否定します。まだユーリがジュニアにいた頃は、憧れだけで済んだでしょう。けれど、徐々に自分のシニアデビューが近づいてくる中、「ヴィクトルを超えて、自分が新たな伝説を打ち立てる」という思いが鮮明になっていき、ヴィクトルもそれを感じ取っていたはずです。
 そして彼は、「他人のモチベーションを上げられない人間が、どうして自分のモチベーションを上げられる?」という思想の持ち主であり、実際、勇利のコーチをしている間も、スキあらばユーリの闘争心を煽り立て、彼のモチベーションを極限まで高めようとします。そんな二人ですから、勇利がいないあの頃、ヤコフ一門は表面下では相当にピリピリしていたのでは? ヴィクトルとユーリ以外で画面に出てくるヤコフの弟子が、ミラとギオルギーという強烈にマイペースな人材のみになるのも当たり前かもしれません。とはいえ、その頃はまだ、勇利を巡る戦いは始まっていなかったので、まだまだ前哨戦だったと思われますが、他の弟子にとっては、かなりストレスのかかる環境だったのでは、と思います…。
 そんな複雑な関係にあっても、ユーリはとても賢い少年ですから、「振り付けはヴィクトルでないとヴィクトルには勝てない」ことを理解しているので、はっきりとヴィクトルに振り付けを頼みます。たとえヴィクトルがシーズン休養を宣言せず、彼もGPSに出場していたとしても、ユーリはきっと同じことをしたでしょう。リリアに対する「悪魔に魂を売るくらいで勝てるならば」という台詞通りの生き方です。彼はやはり、悲しいスケーターなのかもしれません。前回の記事で触れた、ヴィクトルが持つ、尽きることのない勝利への渇望を、ユーリも持ち合わせているのです。ユーリの勝利に対する渇望も燃え尽きることはないので、今後の人生は茨の道を裸足で歩き続けるかのように、困難極まりないことになるでしょう。どこまで歩み続けようとも、その痛みが癒やされるのは勝利を手にした一瞬だけで、それ以外のすべての時間は、癒やされることのない渇きにもがき苦しむことになるのです。
 そんな彼にとっての救いともいえたのは、スケートに愛されることによって失われる愛と命を、失った分だけ与えてくれる、勝生勇利という存在でしたが、ユーリが勝生勇利を手にすることが出来たのは、文字通り一瞬だけのことでした。彼が勝生勇利を引退から引き戻そうと滑った、あの命懸けのFS、あの一瞬だけは勇利もヴィクトルのことを忘れ、ユーリのことだけを考えました。
 皮肉にも、彼はagapeの歌詞通りの人生を歩むことになった、といえるかもしれません。愛について〜agape〜は、永遠の愛を求めた人間が、とうとうそれを手に入れ、幸福となり、その幸いが永遠に続くことをただ祈る、そんな歌です。ユーリは勝生勇利を一瞬だけは自分のものにすることができたが、それを永遠にすることはできない。agapeを表現しきったユーリが、皮肉にも求めた人からのagapeは一瞬しか得られなかった。永遠を与えられたのは、彼にagapeを渡したヴィクトル(=未来の自分、もう片方の自分)だった。ユーリにとって真の救いとなるのは、オタベックと祖父、ヤコフとリリア、ファナティックなファンたちからの無償の愛なのかもしれません。

 

(後編に続きます)

 

炎の男・ヴィクトルの草稿

 

タイトル通りで、元ネタになった長文ツイートのまとめです。

上から下に時系列順になっています。(2017/1/5-6)

 

 ここら辺の「ヴィクトルには伸び代がまだある」「フィーリングだけではやっていけないところまできた(成長の兆し)」「ヴィクトルが出来ない、"曲の解釈を滑りに反映させる技術を持った選手が勝生勇利だった」という事を併せて考えると、ヴィクトルはコーチになった時点では引退する気はなくて、むしろユーリの様な若い世代の台頭に危機感を抱き、「このままの自分じゃ来季からは勝てない」と思って、自分に足りないものを持った勝生勇利の技術を肌身から染み込む様に学ぶ為に日本へ来たって事なのかな…。つまり、バンケット事件がなくても動画さえあれば日本に来てたかも?ということなのかな。

 ヤコフは同じ様な危機感を抱いていたから(ユーリを育てた彼はユーリはヴィクトルを超えるという予感を誰よりも感じていたのだろう)、「今休んだら帰ってこれなくなるぞ(ユーリがシニアに上がるし、他の十代もどう成長してくるかわからない)」と止めたけれど、「今までフィーリングでやって来たからこうなってるのに、まだフィーリングで動くのか!」と言いたかったというか、そういう議論が実際にあったのかもしれない。(結局、彼はフィーリングが齎した危機も、フィーリングによって解決したということになるのか…?)何にせよ、彼がダブルユーリから何を学んだのか、彼の滑りで見てみたい。
 25歳で引退するのが普通の世界で、28歳になった彼が新しい自分を発見するというのは、まさしく彼が求めていた、「世界中の皆がビックリすること」なんじゃないかな。というより、フィギュアスケートの世界だから、稀有なことの様に思えるけれど、彼はまだ二十代。新しい自分を発見するのは、ごくごく当たり前のことなのかもしれない。

 彼は競技者としての自分を全然諦めていなくて、自分の伸び代がまだあると確信していて、だからそれを与えてくれると思った相手に自分のフィーリング(直感)に従って飛びついて、思っていたよりも遥かに素晴らしいものを得て、絶対にその相手を離さないなら、彼が滑った「離れずにそばにいて」はまさに現実化したということになりますね…。この曲を滑ると選んだ時、彼はそんな事は思っていなかっただろうけれど。「離れずにそばにいて」が共に戦う者達の歌というならば、戦う為に必要なものを互いに与え合い、分け合えあう彼らは、正しくオペラ通りの戦士たち。

 逆に言えば、ヴィクトルはあくまで「自分が勝つ為にはこの曲が最適」と思って選んだ以上の意味はなかったのだろうけれど、彼の心の奥底では「共に戦う戦士」を求めていた、という事なのかもしれない…。「強さは一人で作るものだと思っていた」という彼が、そう思う様になったのも、また成長の証…。
 ただ、その「勝つ為に必要な新たな何か」を持った相手が、彼がそれを求めるよりも前に、向こうの方からやってきて、熱烈に彼を求めてくれる、というのもヴィクトルらしいといえばヴィクトルらしい話。やはり世界の頂点に5度も立つに相応しい、物凄い豪運の持ち主ですね。

 ヴィクトルは最終的には「勇利の為に何ができるかを考えてる」ということを心の中で思い始めるけれど、それまでは、「自分が勝つ為の技術を勇利から学ぶ」ということの方が上だったのかもしれない。でも、最後には、貰うだけでもなく、与えるだけでもなく、相互に求め合い、与える関係となった。
 最終回のあの場面の意味するところが、勇利がロシアにホームリンクを移してヴィクトルとユーリがリンクメイトになった、ということなら、それを望んだ/受け入れたヴィクトルはまだまだダブルユーリから学びたい、ということだろうし、それだけの伸び代が、あの3人全員にあるということなんだと思う。
 まだまだヴィクトルは世界を驚かせ足りないし、勇利はヴィクトルの想像をもっともっと超えたいし、ユーリはもちろんヴィクトルの記録全てを塗り替えたいし、憧れの勝生勇利選手を超えるようなスケートが出来る選手になりたい。それがラストの意味する所なら、びっくりするほどHAPPYENDING!つまり何が言いたいかというと、2期はよ!はよ!

 あと、びっくりするほどHAPPYENDINGをありがとう!

 

炎の男・ヴィクトルについて

 まず、前提として、後述の有志のファンによる解説動画・第4話のヴィクトルのプロトコルから(無理やり)読み取った情報によると、ヴィクトルは「スピンでレベル4を取れていない」「後半にジャンプを持ってきていない(基礎点が×1.1倍になり、得点源となる)」「演技構成点において、5つある要素の中でCH(振り付け)とIE(曲の解釈)で10.0を1つのみ、あるいは1つも獲得していない(他の要素では10.0を複数獲得しているにもかかわらず)」など、まだ技術点・演技構成点の両方において点数を伸ばす余地があることがわかる。(YOI世界での総合得点世界記録保持者はヴィクトル・ニキフォルフと設定されているが、涙のGPFで出した335.76がその数字かは、作中で明らかにされていない。あるいはこれ以上のスコアを世界選手権で出しているのか、今のところ、不明である)

 ヴィクトルはユーリに曲の解釈について尋ねられた際に、「そんなのフィーリングだよ」と答え、実際、彼のものと思われるプロトコル(採点表)を解析すると、演技構成点において、PE(身のこなし)では10.0を9人の審査員のほぼ全員から獲得している一方で(私が個人的にとったスクショからはこれくらいまでしか読み取れませんでした、目の限界です)、CH(振り付け)とIE(曲の解釈)では10.0は1つからしか取れていない、もしくはひとつも獲得していないという(繰り返しになりますが、潰れた文字を無理やり読み取とっているので間違っている可能性は高いです)、極端な結果を示している。
 このシーンはフィーリングのみで世界の頂点に立つことのできた彼の天才性を古典的な表現で表すシーンでもあるが(長嶋茂雄の逸話や、ブルース・リーの”Don't Think. Feel.”などが思い出される) 、同時に彼は曲の解釈を他者が理解できるレベルまで言語化することができない(=曲の解釈を深くすることができない、その為に振り付けで意図したテーマと曲のリズムが調和せず、両方の要素での採点結果も低くなっている?)ということを表し、完璧にも見えるヴィクトル・ニキフォルフにも弱点があるのだ、ということを視聴者に暗に示しているシーンでもある。

 以上の点を踏まえると、彼が今まで以上に得点を伸ばそうと考えると、1.ジャンプを後半にもっていくプログラムを作る、2.スピンでレベル4を取る、3.演技構成点においてCH(振り付け)とIE(曲の解釈)の点数を上げる、ということが課題であることがわかる。
 しかし、1については、27歳である彼にとって、体力が落ちる後半に難易度の高いジャンプを持っていくのはかなりの博打であり、今まで前半にジャンプを持ってきていたのも、恐らくそれを懸念した上で、あえて前半にジャンプを持っていくことで、”勝つためのプログラム”を組み、安全な構成を採用していたのだと思われる。
 また、2についても1と同様の理由でレベル4を取れないのかもしれない。彼は自ら振り付けを行っているので、そこではレベル4が取れる構成にはしていると思われるが、実際に滑ってみると、取りこぼしが多い、ということなのか。それかあるいは、彼は確実に取れるレベル+GOE加点を狙って、もともとレベル4は目指していないということなのか。(彼のFSについてはプログラムが不明瞭な点も多いため、結論は出ない)
 そして、3については彼が物語の中でユーリの口を借りて代弁されている通り、「イマジネーションがわかない自分は死んだも同然」、つまりフィーリングについては完全にお手上げ状態、27歳という年齢から考えても相当に危険な行為である「1シーズン丸々休養」を取るほどに思いつめていたようだ。

 その一方で、本作の主人公である勝生勇利は彼のバレエの師匠(愛弟子の為とはいえ、わざわざ自費で海外遠征して試合を見に行く、深夜にライストして試合を観戦する、勇利を拝み倒してでも選手たちとの食事会を望む、クリスのファンである、など、相当なスケオタでもあるようだ)であるミナコ先生から「あんたのステップとスピンには定評があるもんね」とお墨付きである。そして実際、彼はステップとスピンでレベル4を認定されていると思われる。
 さらに曲の解釈についてもかなりの力を持っていることが、ヴィクトルが勇利とユーリの目の前でSP(Erosとagape)を滑った場面で示されている。彼は振り付けを一度見ただけで、そこに秘められた物語をその情景が目の前にあるががごとく語ることができ、さらに(Erosの振り付けを見たことが無いと思われる)西郡にその物語を口頭で伝えたのみで、曲の解釈について理解を共有できるレベルで言語化することができてている。
 加えて、振り付けに関しても独自の解釈(色男ではなく、色男を誘惑する美女を演じる)を加えて、振り付けをより女性らしいものに変更し、曲の解釈を振り付けに反映させ、曲の解釈と振り付けを見事に調和させ、ひとつの物語としてSPを完成させたインスピレーションの持ち主でも有る。

 つまり、勝生勇利はヴィクトルが持ち合わせていない技術の持ち主なのである。そんな彼が、大事な休養シーズンに勝生勇利のコーチをするべく、わざわざ日本までやってきたのは、はたして偶然なのだろうか。
 もちろん、彼がバンケット事件(10話)で勝生勇利から受けた衝撃は相当なものがあっただろうが、本当の意味で彼が勝生勇利のコーチ就任を決意したのは、勝生勇利が彼のプログラム「離れずにそばにいて」を滑る動画を見た瞬間である。彼が「電撃的なインスピレーション」を受けたのは、ヴィクトルが完成させることができなかったこのプロが、他人の手によって彼の理想形として具現化しているのをその目で見たからではないからだろうか?
 以上のことから推察するに、彼が勝生勇利のコーチに就任したのは、勝生勇利がそう希望したから、というだけではなく、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、彼がそう望んだからではないだろうか。ヴィクトルは勇利のコーチになった時点では引退する気はなく、むしろユーリに代表される若い世代の台頭に危機感を抱き、「このままの自分では来季からは勝てない」と思い、自分に足りないものを持った勝生勇利の技術を肌身から染み込む様に学ぶために、日本へ来たのではないか。

 ヤコフは同じ様な危機感を抱いていたからこそ、(ユーリを育てた彼はユーリはヴィクトルを超えるという予感を誰よりも感じていたのだろう)、「今休んだら帰ってこれなくなるぞ(ユーリがシニアに上がるし、他の十代もどう成長してくるかわからない)」と止めたが、それに加えて、「今までフィーリングでやって来たからここで行きづまっているのに、まだフィーリングで動くのか!」と説教したかったのかもしれず、そういう議論が実際にあったのかもしれない。けれど、最終的に、彼は笑顔で現役復帰するので、フィーリングが齎した危機も、フィーリングによって解決したとも言えなくもない。
 彼がもし、自分が勝生勇利を通じて今まで持ち合わせていなかったスケートを身に着け、自分自身も変化することによって、「また世界を驚かせるスケートが出来る」という直感があり、それに従って言葉も通じない、知り合いもロクにいないであろう異国へとマッカチンを連れてやって来たのだとしたら、彼の燃え尽きることのないファイティング・スピリット、勝利への渇望、終わりのない完璧への挑戦には驚くしか無い。
 もはや彼そのものと言っていい「勝利への渇望」は、尽きることはあるのだろうか?五度も世界の頂点に立ち(おそらくだが五輪の金メダルも獲得)、なお自分の中に伸び代を見出し、それを伸ばさなければ勝てないと思えば1シーズンを休養して、異国で一年を過ごすことも厭わない。やはり並大抵ではない。
 25歳で引退するのが普通の世界で、28歳になった彼が新しい自分を発見するというのは、まさしく彼が求めていた、「世界中の皆が驚くこと」ではないだろうか。というより、フィギュアスケートの世界だから、稀有なことの様に思えるが、実際のところ、彼はまだ二十代。新しい自分を発見するのは、ごくごく当たり前のことなのかもしれない。
 彼は周囲の風聞など全く意に介さず、競技者としての自分を欠片も諦めておらず、自分の伸び代がまだあると確信して、勝つために必要な、しかし自分が持ち合わせていないものを与えてくれると思った相手を見つければ、それに自分のフィーリング(直感)に従って飛びついて、思っていたよりも遥かに素晴らしいものを得た。
 そして彼が絶対にその相手を離さないなら、彼が滑った「離れずにそばにいて」はまさに現実化したということになる。この曲を滑ると選んだ時、彼はそんな事が起きるとは、少しも考えていなかっただろうが。「離れずにそばにいて」が共に戦う者達の歌というならば、戦う為に必要なものを互いに与え合い、分け合えあう彼らは、正しくオペラ通りの戦士たちである。
 この曲でFSを滑ると決めた時、ヴィクトルはあくまで「自分が勝つ為にはこの曲が最適」という以上の意味はなかったのだろうけれど、彼は心の奥底では「共に戦う戦士」を求めていた、という事なのかもしれない。「強さは一人で作るものだと思っていた」という彼が、そう思う様になったのも、また成長の証である。
 ただ、その「勝つ為に必要な新たな何か」を持った相手が、彼がそれを自分で見出して求めるよりも前に、向こうの方からやってきて、彼を熱烈に求めてくれる、というのも、絶対王者であるヴィクトルらしいといえばヴィクトルらしい話。やはり世界の頂点に5度も立つに相応しい、ものすごい豪運の持ち主と言えるだろう。ヴィクトルは最終的には「勇利の為に何ができるかを考えてる」ということを心の中で思い始めるが、それまでは、「自分が勝つ為の技術を勇利から学ぶ」ということの方が上だったのかもしれない。だが、最後には、貰うだけでもなく、与えるだけでもなく、相互に求め合い、与える関係となった。
 最終回のあの場面の意味するところが、勇利がロシアにホームリンクを移してヴィクトルとユーリがリンクメイトになった、ということなら、それを望んだ、もしくは受け入れたヴィクトルは、まだまだダブルユーリから学びたいことがいくらでもあり、もっとスケートを上手くなって新しい自分を見せつけて、世界中の人々を驚かせたい、ということだろうし、それだけの伸び代が、あの3人全員にあるということなのだろう。
 まだまだヴィクトルは世界を驚かせ足りないし、勇利はヴィクトルの想像をもっともっと超えたいし、ユーリはもちろんヴィクトルの記録全てを塗り替えたいし、憧れの勝生勇利を超えるようなスケートが出来る選手になりたい。それがラストの意味する所なら、びっくりするほどのHAPPYENDING!である。
 何にせよ、この物語が続くのならば、彼がダブルユーリから何を学んだのか、彼の滑りで見てみたい。

 

※ヴィクトルのプロトコルの内容については、本編のスクショから潰れた文字を無理やり読み取ったものであり、あくまでも個人的にはこう見えた、という以上の意味はありません。公式情報ではありませんので、おそらく間違っています。

 

<参考資料>

 この記事を作成するにあたり、以下の動画からお世話になりました。ありがとうございます。 

 

 

 また、公式の情報については、本編での内容に加え、以下の資料を参考にさせていただきました。

 

 

 

spoon.2Di vol.21 (カドカワムック 675)

spoon.2Di vol.21 (カドカワムック 675)