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ヴィクトルとユーリ、新旧レジェンドを繋ぐもの、君の名は勝生勇利(前編)

 

タイトルは勝生勇利メインの記事っぽいんですが、ユーリの記事です。

 

 前回の記事で書いた通り、ヴィクトルは自分のフィーリングを言語化出来ない男です。今まではそれでもやってこられた、でもとうとうイマジネーションも尽きてあら大変、という時にやって来てくれたのが皆さんご存知、我らのアイドル、勝生勇利くんです。勝生くんはヴィクトルに出来なかったこと、フィーリングを言語化出来るレベルまで解釈し、それに合わせて振り付けを変更、曲のリズムと振り付けを調和させるということをやってのけ、ヴィクトルの死んだイマジネーションを見事に蘇らせてくれました。割れ鍋に綴じ蓋カップルよ永遠に。

 話をユーリに戻します。ユーリは1話の時点でヴィクトルの記録を実は破っているん(ジュニア世界選手権2連覇)ですが、彼がヴィクトル以上の逸材であることは、徐々に、密やかに視聴者に全話に渡って示されていきます。
 まずはフィーリングに対する見解の相違からですね。ユーリはヴィクトルの曲の解釈に対する見解、「そんなのフィーリングじゃないか」というセリフに絶句しています。彼はフィーリングだけやっていけばいずれは行きづまり、残るのは氷上の美しい抜け殻のみ、ということに十五歳で気がついているんですね。彼はヴィクトル以上の才能の持ち主なので、ユーリもまた同じくフィーリングのみでやっていけなくはなかったんだろうけれど、彼はそれを極端に嫌がった。ヴィクトルがユーリの闘志を煽るライバルにはなれても、師にはなれないことがわかるシーンです(振付師もできるな…)。
 彼はヴィクトルに何度も「説明しろ(=言語化しろ!)」と言いますが、それが出来たらわざわざ日本まで勝生勇利のコーチをしにやって来ませんよ、というところでしょうか。ユーリが温泉oniceから帰る時、無理にでもヴィクトルをロシアに持ち帰ろうとしなかったのも、ヴィクトルから学んだら自分のスケート、というよりも自分を構築する人格ごとダメになると思ったからかもしれませんね(そこまで行く前に喧嘩別れするか…)。冷静にヤコフのもとで続けることが自分のスケート人生にとってベストである、と判断できた彼はやはりYOIの登場人物たちの中で、一二を争うほどに賢いのではないでしょうか。
 もちろん、ユーリがあそこまで早い段階でフィーリングのみでやっていくことの危険性に気が付くことが出来たのは、ユーリの才能がヴィクトル以上であるからでしょうが、それ以上に、彼はヴィクトルが若い頃に(おそらくは)得られなかったもの、自分と同等の才能を持つ者と出会えていたからでしょう。ユーリは彼と同等の才能が、どういう風に進化していき、どう後退していくのかを、同じコーチのもと、リンクメイトとしてつぶさに観察することが出来るという、ヴィクトルには望めなかったであろう、とてつもなく幸せな環境が、ユーリにはあったのです(そういう幸運も含めて彼の才能といえますね)。
 だからこそユーリは、ヴィクトルではなく、勇利のスケートに惹かれたんでしょうね。完璧とは程遠いのに、人を惹きつけるスケート。それはヴィクトルというある意味での”完璧”とされたものを超えることを至上の目標にしていたユーリにとって、それまでスケートに抱いていた価値観のすべてがひっくり返るほどの衝撃だったのではないでしょうか(そして思わずトイレまで付けていくという奇行に出てしまうあたり、彼は自分のフィーリングのみに突き動かされて生きているヴィクトルに、やはり似ていますね)。ヴィクトルが勇利のスケートに惹かれたのも、きっと同じ理由でしょう。自分が求めて得られなかったスケートが、そこでは実現されていた。自分が上へと進化し続ける為には、勇利のスケートが必要という点では、二人は何も変わりがない。勇利の引退宣言に対し、ヴィクトルがユーリに泣きついたのも、二人が抱いていた共通の思いを思えば、自然な流れです。だからこそ、ユーリは命懸けのFSに挑み、滑り終えたあと、泣いたのでしょう…。
 最終回から振り返ってみると、やはりというかなんというか、全ての解釈が逆転して、ダブルユーリがヴィクトルを巡って戦う物語→(反転)→ヴィクトルとユーリが勇利を巡って対立する物語、となりましたね…。ミステリ小説を読んでいる気分です(それも、ミステリ小説であることそのものを隠していた、ミステリ小説)。
 そして、ユーリとヴィクトル、GPFでとうとう明かされたこの二人の関係で重要な事実は、もう一つあります。無心の境地でagapeを滑るユーリに対してヤコフが見た、若い頃のヴィクトル。これは、ヴィクトルとユーリはある視点から見れば同一人物である、つまり、過去の自分と未来の自分である、ということを示しています。
 ヴィクトルとユーリは全十二話中、ずっと激しい対立関係(=新旧レジェンド対決)を続けていましたが、その理由は意図的に、ずっとぼかされてきました。そしてユーリの勇利に対する真の思いが明らかになったいま、ようやく彼らがどうして対立関係であったのか、深く納得できるのです。そして二人が、勇利の引退を阻止するという点においてのみ共闘した理由も。
 彼らは同じ天の果実(=勇利)を巡って争う関係でもあり、過去の自分と未来の自分の激しい闘争でもあったのです。初期の温泉oniceではユーリと勇利がヴィクトルという果実を巡って争う対立構造でしたが、最終回に至ってこの対立構造も逆転し、ユーリとヴィクトル、どちらが勇利に選ばれるか、という立場に入れ替わります。そのことは、ラストの場面、ユーリとヴィクトルの二人が勇利を迎えに来る、というシーンに象徴的に示されます。第一話で初めてこの三人が集うシーンにおいては、勇利は二人から離れていきました。ラストにおいて、三人の関係性はすべてが逆転したといえるかもしれません。
 ユーリとヴィクトル、この二人の関係がネクストステージに進むためには勇利がそこにいなければならず、勇利がそこに加わったことによって、三拍子の音楽が奏でられ始めたのです。勇利がいなかった前シーズンまでは、ユーリとヴィクトルの関係は、表向きは才能豊かな後輩を指導する先達、そしてそれに反発しながらも憧れる後進、という関係であったでしょうが、水面下ではどうだったでしょうか。実際、物語の中で、ユーリは「誰もがお前に憧れている思うなよ」と、はっきりとヴィクトルを否定します。まだユーリがジュニアにいた頃は、憧れだけで済んだでしょう。けれど、徐々に自分のシニアデビューが近づいてくる中、「ヴィクトルを超えて、自分が新たな伝説を打ち立てる」という思いが鮮明になっていき、ヴィクトルもそれを感じ取っていたはずです。
 そして彼は、「他人のモチベーションを上げられない人間が、どうして自分のモチベーションを上げられる?」という思想の持ち主であり、実際、勇利のコーチをしている間も、スキあらばユーリの闘争心を煽り立て、彼のモチベーションを極限まで高めようとします。そんな二人ですから、勇利がいないあの頃、ヤコフ一門は表面下では相当にピリピリしていたのでは? ヴィクトルとユーリ以外で画面に出てくるヤコフの弟子が、ミラとギオルギーという強烈にマイペースな人材のみになるのも当たり前かもしれません。とはいえ、その頃はまだ、勇利を巡る戦いは始まっていなかったので、まだまだ前哨戦だったと思われますが、他の弟子にとっては、かなりストレスのかかる環境だったのでは、と思います…。
 そんな複雑な関係にあっても、ユーリはとても賢い少年ですから、「振り付けはヴィクトルでないとヴィクトルには勝てない」ことを理解しているので、はっきりとヴィクトルに振り付けを頼みます。たとえヴィクトルがシーズン休養を宣言せず、彼もGPSに出場していたとしても、ユーリはきっと同じことをしたでしょう。リリアに対する「悪魔に魂を売るくらいで勝てるならば」という台詞通りの生き方です。彼はやはり、悲しいスケーターなのかもしれません。前回の記事で触れた、ヴィクトルが持つ、尽きることのない勝利への渇望を、ユーリも持ち合わせているのです。ユーリの勝利に対する渇望も燃え尽きることはないので、今後の人生は茨の道を裸足で歩き続けるかのように、困難極まりないことになるでしょう。どこまで歩み続けようとも、その痛みが癒やされるのは勝利を手にした一瞬だけで、それ以外のすべての時間は、癒やされることのない渇きにもがき苦しむことになるのです。
 そんな彼にとっての救いともいえたのは、スケートに愛されることによって失われる愛と命を、失った分だけ与えてくれる、勝生勇利という存在でしたが、ユーリが勝生勇利を手にすることが出来たのは、文字通り一瞬だけのことでした。彼が勝生勇利を引退から引き戻そうと滑った、あの命懸けのFS、あの一瞬だけは勇利もヴィクトルのことを忘れ、ユーリのことだけを考えました。
 皮肉にも、彼はagapeの歌詞通りの人生を歩むことになった、といえるかもしれません。愛について〜agape〜は、永遠の愛を求めた人間が、とうとうそれを手に入れ、幸福となり、その幸いが永遠に続くことをただ祈る、そんな歌です。ユーリは勝生勇利を一瞬だけは自分のものにすることができたが、それを永遠にすることはできない。agapeを表現しきったユーリが、皮肉にも求めた人からのagapeは一瞬しか得られなかった。永遠を与えられたのは、彼にagapeを渡したヴィクトル(=未来の自分、もう片方の自分)だった。ユーリにとって真の救いとなるのは、オタベックと祖父、ヤコフとリリア、ファナティックなファンたちからの無償の愛なのかもしれません。

 

(後編に続きます)